和気町歴史民俗資料館コラムvol.12

和気町歴史民俗資料館コラムvol.12

こんにちは、学芸員のナカムラです。

今日は「和気の和紙」についてご紹介したいと思います。2014年にユネスコの無形文化遺産に選ばれた「和紙」。世界でも注目される日本の伝統工芸のひとつですね。

かつて和気町でも「大田原紙」「日笠紙」※1という和紙が製造されていました。どちらも原料は楮(コウゾ)です。

(右)漉き槽(スキブネ):漉いた和紙を乾かす干し板 

(左)楮を蒸す釜(直径90cm)大立(おおだて)(おけ)(直径・高さ100cm)

 日笠紙は、江戸時代初期、岡山藩主である池田忠雄(1602-1632)によって京都に派遣された日笠下の日笠嘉左衛門※2が、茶人本阿弥光悦の元で製紙を習い、日笠に帰ったのち新しい製法で製造したのが始まりといわれています。師である光悦は、もらった日笠紙の質の良さに驚き礼を述べた書状を送りました。また、嘉左衛門の孫にあたる喜三郎の覚書によると、この時光悦は日笠紙に「相模(さがみ)」という銘をつけたこと、寛文6年(1666)に池田光政が和意谷にある池田家墓所を参詣した帰りに日笠家へ立ち寄り、紙漉きの状況を視察し、嘉左衛門の子である八郎兵衛(喜三郎の父)を激励したのだそうです。製法は日笠家秘伝とされ、子孫によって明治時代まで継承されました。

完成した和紙を運ぶ入れ物

一方、大田原紙は大田原村のほとんどの家で漉かれていました。同村では明治17年(1775)2月15日『楮取締并集会定約書』「紙漉職中定約書」が結ばれ、勤怠管理、楮晒場の場所取り禁止、楮盗取者への罰則などの厳しい決まり事があり、紙漉が村の結束を固める上で一役かっていたようです。また、泉(野吉)地区の明治〜昭和にかけての会議記録にも「楮小屋」修理についての記載が見られることから、和気町内のあちこちで和紙の生産や原料の採集が行われていたことがわかります。

大田原では、原料となる楮が同地区のものだけでは足りず、佐伯や上山、県北や兵庫県からも仕入れたり、明治24年(1891)に山陽本線が開通すると線路沿いに楮を植えて「鉄道楮」として入札で落として補っていたそうです。

大田原紙の版木

 その後、これらの和紙生産は明治以降の豪雨による水害や耐火レンガ・クレー工業の発展、片上鉄道の開通などの社会的要因によって従事者が減少し、日笠紙は明治中頃、大田原紙他町内の紙漉は昭和40年頃にはすべて廃業してしまいました。日笠紙は、和気付近の寺や旧家の古い文書に使用されていた他、京都の朝廷や公家の間でも広く使われていたようなのですが、「これが日笠紙!」という現物が現存していない以上、光悦が絶賛したその美しさを私たちが知るよしもありません。

 <次回「雁皮と和気」について>

※1 この他、明治泉・大中山・清水・塩田・山田地区でも紙を漉いていたという。

※2 戦国時代の天神山城主・浦上宗景の家来であった日笠頼房の弟。

<参考資料>

和気郡史刊行会2002『和気郡史 通史編下巻Ⅱ』

私立和気郡教育会1973『和気郡誌』

仙田実1980『和気の歴史』 和気町歴史民俗資料館2002『ふるさと和気−民話編−』