学芸員のナカムラです。
前回に引き続き「企画展 終戦80年記念 戦争と和気」(リンク貼付:https://wake-rekiminkan.amebaownd.com/posts/56952973)に絡めて、【武器の疎開】についてご紹介します!
戦時中に行われた疎開といえば、空襲の被害を少なくするために家屋等を事前に解体する建物疎開や、人々を都市部から比較的安全な農村部への避難させる疎開をイメージしますよね。和気町にも岡山市内や神戸からの学童疎開、各地から親類を頼って多くの人々が疎開してきました。
しかし、避難したのは人間だけではありません。
和気町へは軍事物資も疎開してきました。
岡山の補給廠から運ばれてきた物資は、酒蔵や米蔵、公会堂などに保管され、中でも弾薬(火薬)や砲弾などの危険物は大中山地区、奴久谷地区※1の山の麓に掘られたくの字型の横穴倉庫※2に貯蔵・保管されていたことがわかっています。これらの横穴の掘削作業には、周辺の村で割り当てられた人々や閑谷中学の学生が駆り出されたそうです。
また、軍事物資と同時にそれらを見張る兵隊約800名もやってきて、藤野国民学校(現在の和気小学校)や周辺の町民宅に宿営したことが当時の学校日誌に記されています。
戦後、これらの疎開してきた武器は進駐軍によって吉井川の中洲で爆破処理され、戦車はどこかに運び去れましたが、和気人々は片付けの際に残された武器の残留物を持ち帰り、砲弾は加工して茶筒や花瓶などに、砲弾を入れていた木箱は米の保管などに再利用していたそうです。武器とはいえ、あるものは使う!という戦後の人々の逞しさと器用さが垣間見えますね。
ちなみに、砲弾の加工品の展示を見て驚くのは町外の人ばかりで、和気の人々にとってはあまり珍しいものでもないご様子。「うちにもあるで」「物干し竿の重しにしとった」など、当たり前のように家庭で使用されていたことを証言される方が多数おられました。
※1 衛生品を入れていたという証言もある。
※2 現在は、ほとんど崩落。県内にはこのような横穴倉庫が和気の他にも久米や総社など7市町村に存在した。


右:砲弾を加工した花瓶(後列右)と茶筒
左:砲弾を収納していた箱と砲弾(薬莢)
<参考>
吉久正見1999「軍事物資の疎開〜和気町の場合〜」『岡山の記憶』創刊号
和気郡史編纂委員会編2002『和気郡史』通史編下巻Ⅲ
岡山県教職員組合教育運動推進センター編2009『岡山の戦跡』
岡山・十五年戦争資料センター編2005『総動員の時代 私たちはこうして戦争に呑みこまれた』
